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(1)今年は明治維新から150年 「西郷どん」に注目集まる

(1)今年は明治維新から150年 「西郷どん」に注目集まる

2018年2月17日
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西南戦争時、数多くの負傷兵を受け入れた「正念寺」の山門

澄み切った青空の下、見渡せば木葉山、金峰山の三ノ岳と小高い山々の連なりがくっきり浮かんでいます。町の路地を歩いていると、民家の庭先で梅のつぼみを見つけ、春が着々と近づいていることを感じます。

さて、今年は明治維新から150年の節目の年。NHK大河ドラマ「西郷どん」にも注目が集まっています。西郷隆盛が薩軍の首領として指揮をとった西南戦争ゆかりの地である玉東町も盛り上がりを見せています。

日本が近代国家として歩み始めた時、国内最後の内戦が起こります。それが西郷隆盛を首領にして起こった士族反乱である西南戦争です。

1873(明治6)年、征韓論に敗れて明治政府の職を辞した西郷隆盛は、鹿児島に帰郷。その後、士族出身の若者を教育する私学校を設立します。積極的に西欧文化を取り入れ、外国とも戦える強固な軍隊を創設することを目指していたといいます。しかし政府は、このような西郷の活動を懸念し始めます。さらに、政府による西郷暗殺計画なども浮上し、私学校側は猛反発。ついに1877(明治10)年2月15日、薩軍の一隊が熊本方面へ出発。同月19日、政府は薩軍征討軍の派遣を決定し、西南戦争が勃発しました。

南九州各地に広がった西南戦争で、最大の激戦地となったのが玉東町と熊本市北区植木町の境にある田原坂です。同年3月4日から20日まで、熊本城に籠る熊本鎮台を救いに行きたい官軍と、これを阻止して進軍したい薩軍が一進一退の攻防を繰り広げます。

その激戦の様子を見守り続けていたのが、かつての三池街道、現在の国道208号に立つ国指定史跡の「正念寺」の山門です。

「正念寺」の山門の正面にある古民家。裏に回ってみると小さな畑があり、明治期の玉東町はこんな雰囲気だったのでは…というムードが漂っています

西南戦争以前からあるというイチョウの古木。「ふるさと熊本の樹木」に登録されています

昭和8年に建立された鐘楼。土台となる石垣は、熊本城の武者がえしのようにゆるくカーブし、四隅の石の角がピンと跳ねる、よく見ると小技がきいた造りです

「玉東町に、西南戦争当時から残る数少ない建物のうちの一つ。前住職のお話も面白く、ゆかりの地めぐりでは外せないスポットなんです」と玉東町教育委員会学芸員の宮本千恵子さん。

「柱に銃弾が残っとるけん、よく見てごらん」と前住職の隈部廣宜(ひろのり)さん(78)。弾痕だけでなく、小指の先くらいの大きさの鉛弾がめり込んでいます。

鉛の銃弾が食い込んだままの山門の柱

西郷隆盛や谷干城、篠原国幹など、西南戦争ゆかりの人物の書状などをコレクションしている前住職の隈部廣宜さん

主に発掘調査に携わってきたという宮本千恵子さん。「西南戦争の遺跡をはじめ、史跡が多いのも玉東町の魅力です」

西南戦争時は、隈部さんの祖父の時代で、寺には負傷した兵士を救護する大繃帯所(だいほうたいしょ)が置かれました。同寺は「博愛社」(日本赤十字社の前身)の発祥地とされています。

「当時は、境内には血が川のように流れ、死体で足の踏み場がなかったそうです。戦争の初期は、死傷者は境内に土葬していたので、玉名から来た軍夫は、恐ろしくて脱走したという日記を残していますよ」。隈部さんの話から戦争の悲惨さが伝わってきます。

官軍の兵士は全国から派遣されてきましたが、食量や弾の運搬、死体の埋葬などには、日記を残した軍夫のように地元の人たちがかり出されました。

「戦争が始まった頃は地元の人たちも避難していたそうですが、戦況が落ち着いてくると兵士相手に餅を売りに戻ってきていたそうですよ」と宮本さん。さすが、人間はたくましい。

敵味方の区別なく負傷兵の手当てをした正念寺は、日本赤十字社の前身「博愛社」発祥の地と言われています。その後ろには「官・薩両軍戦没者」の慰霊碑が