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(2)今も残る海軍航空隊基地跡 地下壕の総延長は3.8kmにも

地下魚雷調整場の入り口

(2)今も残る海軍航空隊基地跡 地下壕の総延長は3.8kmにも

2016年10月15日
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高原地区にのびる道路。ここには飛行機の滑走路があったそうです

のどかな山間に抱かれた錦町ですが、太平洋戦争末期に、同町と相良村にまたがる丘陵地=高原(たかんばる)台地=に、「人吉海軍航空隊基地」があったことは広く知られていません。

今から73年前、錦町の北部(木上=きのえ=地区)を中心に海軍の基地建設が始まり、昭和19(1944)年に航空隊が開隊されました。しかし翌年に終戦を迎えたことで、わずか1年で解隊されています。

昨年同町が行った測量調査によると、人吉海軍航空隊基地が建設、及び、計画された地下施設は約2万5000㎡。現存する地下施設は総延長3866m、総面積は1万366㎡という巨大なものです。しかし一体なぜ、漁港や海沿いではなくこの山間地方に、海軍の基地がつくられたのでしょう。

「人吉海軍航空隊基地は、パイロットやエンジニアの育成施設として開設されました。全国から予科練生が集められましたが、戦況悪化で、特攻隊の訓練や兵器製造へとその目的が変化していったようです。またここが海軍基地に選ばれたのは、丘陵の地形が飛行機の離発着に向いていたのと、鹿児島の出水や鹿屋(かのや)といった海軍基地の中継地としての役割が大きかったようです」と鏡町の学芸員の手柴智晴さん(35)は話します。

人吉海軍航空隊基地庁舎居住地区入り口の隊門の風景(資料写真・錦町提供)

人吉海軍航空隊基地の本部などがあった庁舎居住地区跡には現在、「人吉農芸学院」があります。隊門は当時のまま残っています

錦町の学芸員の手柴智晴さん

広範囲にわたり残存する基地の遺構のひとつ、由留木(ゆるぎ)地区にある地下魚雷調整場や地下作戦室の地下壕を訪ねてみました。

道路からは防空壕の入り口のように見えます。しかし、足を踏み入れると地下壕はひんやりとして、終戦から時間が止まったかのようです。今にあっても緊張感を与えるのは、軍事施設特有の気配からくるものでしょうか。

由留木地区にある地下魚雷調整場の入り口は、大きな防空壕のように見えます

地下魚雷調整場の北にある地下作戦室の地下壕

地下魚雷調整場のすぐ近くにある地下壕には、無線室や地下兵舎、工場などが迷路のようにつながっています

戦後71年が経っても基地跡がこうしてかつての姿をとどめているのは、都市開発が進まなかったことが幸いしているようです。錦町では、「戦争を伝える施設と平和を考える場として、保存や活用法を探っていきたい」と話しています。

由留木地区に広がるのどかな風景。かつてこのあたりは人吉海軍航空隊基地のひとつでした

基地跡の遺構を見守るように由留木地区にたたずむ「木上加茂神社」