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(1)やっぱり温泉がど真ん中 古い絵図が語る町の歴史

大森家が所蔵している街絵図

(1)やっぱり温泉がど真ん中 古い絵図が語る町の歴史

2016年8月6日
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市民の湯処としてはもちろん、県内外からファンが訪れる「さくら湯」

雨に洗われた山鹿の街は、石畳がしっとりと濡れ、いつにも増して情緒豊かに目に映ります。街の中心部にある「あし湯」では、観光客や地元の人たちがおしゃべりに花を咲かせています。

野口雨情作詩の「山鹿小唄」に「山鹿千軒たらいなし」と歌われた湯の町、山鹿。これは、洗濯するのにタライを使わず、掛け流しのお湯をぜいたくに使っていた庶民の暮らしぶりを表現したものです。

現在、「さくら湯」が建つ住所が「山鹿市山鹿1-1」。この番地が何を意味するのかを知るため、さくら湯近くに住む大森加寿さん(90)を訪ねました。

大森家は代々、貸家業や金融業、酒造業を営んでいた旧家で、表通りに面した建屋は、文久2(1862)年に建築されました。幕末、この家が建つ2年前、江戸城の桜田門で、井伊直弼が殺害された「桜田門外の変」が起きました。そう思えば、過去からの物語をまとった、町屋の黒光りのする梁や土間のコケは、時代の証人でもあるわけです。

大森家の座敷から眺める庭にも重ねられた歴史があります

大正14(1925)年に大森家で購入したというスタインウェイピアノ。当時の同家の財力や繁栄ぶりがうかがえます

旧家・大森家の歴史を守り続ける、大森加寿さん

大森家で見せていただいたのは、明治18(1885)年に描かれた貴重な山鹿の街絵図です。縦約2m、横約1mの絵図には、宅地や田畑、竹林の面積が色分けされて細かく描かれていました。

「絵図によると、現在のさくら湯の所在地が『壱番』『二番』『四番』『五番』に分かれています。中でも青色で描かれた温泉坪の場所が『壱番』とあるのは、ここが一等地だったということが分かります」と山鹿の文化協会会長の木村理郎さん(68)が解説してくれました。(※大森家、街絵図はいずれも非公開)

さくら湯の歴史は、肥後細川藩初代藩主・細川忠利が寛永17(1640)年に山鹿の温泉を気に入り御茶屋を築いたのが始まりで、明治になって払い下げになりました。市民の湯として多くの人たちに愛されていますが、現在の番地に「1-1」とあるのは、かつてここが文字通り山鹿の中心地だったということが分かったのでした。

大森家が所蔵している街絵図。制作は明治18年。当時の山鹿の歴史を知る貴重な資料です(非公開)

「この街絵図は、過去と現在の山鹿を知ることができる、とても貴重な資料です」と、山鹿文化協会会長の木村理郎さん

縦約2m、横約1mに渡り、細かく手書きで描かれている街絵図は圧巻です