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(1)農民の苦心の「百太郎溝」300年後の今も田畑を潤す

水辺にはトンボが数多く舞っていました

(1)農民の苦心の「百太郎溝」300年後の今も田畑を潤す

2014年10月4日
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宝永元年(1704)に完成し、昭和35年まで使われていた「百太郎堰」の樋門。難工事が続き、神様のお告げによって百太郎さんが人柱になったと伝えられます

澄み切った青空にくっきりと稜線を描く山々。さわやかな秋風が吹きはじめています。柔らかな朝の日差しの下に広がる水田にはしっかりと実を着けてきた稲穂が、朝露にキラキラと輝いています。

多良木町でコメづくりといえば、忘れてならないのが農業用水路の「百太郎溝」。ちょっと変わった名前ですが、これにはわけがあります。江戸時代初め〈1680年ごろ〉、農民たちは球磨川の水を農業に利用しようと用水路づくりに取りかかります。

しかし、川の水の取り入れ口(樋門=ひもん)が何度作っても洪水のたびに壊れてしまいます。そこで人柱を立て、石造りの頑丈な樋門を作ります。完成は1704年でした。その人柱の犠牲となったのが百太郎さん。それで樋門は「百太郎堰(ぜき)」、用水路は「百太郎溝」と名付けられました。この水は今も広大な農地を潤し続けています。

「昔は溝に流れる水で顔を洗ったり洗濯をしたりしていたそうですよ」と説明してくれたのは、多良木観光案内人協会会長の住吉献太郎さん(79)。「百太郎溝」の水は、以前はもっときれいで、農業だけでなく生活用水にも使われていたといいます。

江戸時代に造られた「百太郎堰」は昭和35年まで活躍して引退、現在は近くの水戸神社境内に設置されています。

凝灰岩で造られた樋門は、一見するとストーンサークルのようです。近づくと、一つひとつの石が巨大で、どのようにして組み上げたのか…先人の技と知恵は計りしれません。

現在の「百太郎堰」の水門

水流によって浸食された樋門の柱。こちら側が上流に向かって立っていました

球磨川の取水口近くの「百太郎溝」

水辺にはトンボが数多く舞っていました