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(1)干拓がもたらした豊かな恵み 恩人・惣庄屋の鹿子木量平祭る

(1)干拓がもたらした豊かな恵み 恩人・惣庄屋の鹿子木量平祭る

2014年4月19日
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松橋町(宇城市)から県道14号を八代方面へ向かい、鏡町を訪れました。

整然と区画された田畑が広がる鏡町ですが、かつては海や湿地帯でした。海水の影響を受けた土地では農業もままならず、人々はとても困っていました。

今から190年前、このやせた土地を豊かにしようと立ち上がった人物がいました。

江戸末期の文化2年(1806)に、野津手永(のづ・てなが※現在の鏡町あたり)の惣庄屋だった鹿子木量平(かなこぎ・りょうへい)が、干拓による新田開発を始めたのです。

大鞘川の水を送った大鞘樋門

戸田さんは元校長で、退職後、鏡町の干拓事業の歴史についてまとめあげた本も出版しています 

戸田市治著「鏡地方における干拓のあゆみ」 (鏡町教育委員会発行)

「当時の干拓事業は、潮止めの堤防をつくるために海から船で運んだ石を積み、丸太で木枠を組み立てるというもので、全て人力と手作業だったけん、労働力や建材にも莫大な費用がかかったわけですたい。干拓事業の成功は、惣庄屋・鹿子木量平の尽力のおかげです」と話すのは、鏡町の干拓事業の歴史を検証し、今に伝えている元鏡小学校長の戸田市治さん(83)です。

ちなみに「手永」とは、細川藩独特の行政の単位です。江戸後期の肥後には51の手永があり、各手永の下にいくつかの村が構成されていました。その手永の責任者が惣庄屋でした。

干拓事業を見事に成功させた鹿子木量平でしたが、海水の塩分を含む土地を肥沃な土にするために、さまざまな苦労を重ねたようです。

文政2年(1819)に建てられた大鞘樋門(おざやひもん)は、当時としてはぜいたくにも、大理石でこしらえられた水門です。

水門は、大鞘川の流れをせきとめ、周囲の田畑へ水を送りました。このおだやかな田畑の景色は、そうした先人たちの汗で作り上げられたといえます。

地域の恩人である鹿子木量平を祭神とした文政神社の横には、その墓があります。菜の花畑で舞う蝶々たちが、彼の安らかな眠りを見守っているかのようでした。

大鞘川の流れ。土手には菜の花が咲いています

北新地の堤防切れ所跡。昭和11年の大潮で堤防が決壊し、約446ヘクタールの田畑が全滅したそうです。ここは、当時の出来事を今に伝える場所です

文政神社の横にある鹿子木量平の墓

鹿子木量平を祭った文政神社