鍛冶職人の長男として益城町に生まれた志賀哲太郎。1924(大正13)年に台湾で撮影された肖像写真。この年に哲太郎は亡くなりました(志賀哲太郎顕彰会提供)

昨年12月、津森小学校の近くに、日本統治時代の台湾に渡って子どもたちの教育に力を注いだ、益城町出身の教育者・志賀哲太郎の顕彰碑が建てられました。志賀は1865(慶応元)年、田原地区の生まれ。その2年前に徳富蘇峰が益城町で生まれています。

志賀は、九州日日新聞(現・熊日)の記者を経て1896(明治29)年、日清戦争で日本の統治下にあった台湾に渡り、大甲(現・台中市大甲区)で代用教員として採用されました。

「大甲公学校で26年間教壇に立って分け隔てなく子どもたちに接し、貧しい子どもらには教材を自ら買い与えたそうです。『官服姿では教育はできない』と和服姿で通しました。正教員を固辞したのはそのためだったようです」と話すのは「志賀哲太郎顕彰会」の宮本睦士(むつひと)さん(75)です。

「志賀哲太郎顕彰会」の宮本睦士さんと、左は中村家14代目の中村康弘さん(56)

鍛冶職人だった志賀家は、西原村から田原地区の中村家の一角(右奥の浄信寺の西隣)に移り住みました。哲太郎はここで生まれています

宮本さんは「志賀先生は59歳で亡くなるまで、人生の半分を台湾の教育に注ぎました。戦後の台湾をけん引する経済人を育て、地元の住民にも影響を与え、現地では『大甲の聖人』と呼ばれています」と話します。

しかし、時代の波が志賀をのみ込みます。台湾で民族運動が活発化し、総督府側の立場だった志賀は住民との間で板挟みになり、悩み苦しんだ末、現地で亡くなりました。その死を悲しんだ教え子たちは「自分が死んだら、先生の墓の近くに葬ってくれ」と遺言し、今も教え子らの墓碑に囲まれて眠っているそうです。

「志賀先生の功績は台湾では高く評価されていますが、地元の熊本ではあまり知られていません。こんな偉大な教育者がいたことを、子どもたちに伝えていきたい」と宮本さん。志賀哲太郎の功績を称える顕彰碑は、大甲の方角を向いて立っています。

上陳地区にある志賀哲太郎の顕彰碑。台座の石は志賀家が暮らしていた中村家の石垣だったものを使い、上の3つの石は台湾の人々から贈られたものだそうです

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