旧矢嶋家。現在も敷地の前を布田川が流れています(益城町教育委員会提供)

勝子は25歳で横井小楠門下の林七郎に嫁ぎ、3人の子どもに恵まれますが、10年後、結婚生活に自らピリオドを打ちます。「当時、女性から離婚を切り出すのは勇気の要ることだったでしょう。夫とうまくいかなかったようですが、その後の活動を考えると、家庭の枠に収まるような女性ではなかったのだと思います」と堤さん。

40歳の時、勝子は明治政府の職を得ていた兄の直方が病に倒れ、看病するため上京します。船で向かった旅の途上、勝子は自らの名を、船のかじ取りを意味する「楫」の字を使って楫子と改めました。離婚、改名、たった一人での上京など、楫子の行動力には現代の女性をも上回る迫力を感じます。

東京で教師の資格を得た楫子はその後、キリスト教系の女学校の舎監となり、米国の女性宣教師の影響でキリスト教に入信。東京の「女子学院」の初代院長に就任します。また、女性の地位向上のため一夫一婦制の建白書提出、婦人参政権、廃娼、禁酒運動などにも尽力しました。

堤さんは「楫子の生き方の根幹には、生まれ持った勝ち気で正義感のある性格に加え、兄直方の教えや横井小楠の思想、キリスト教の教えも影響していると思います」とも話します。

楫子は1925(大正14)年6月、東京で92年の生涯を閉じました。

矢嶋家があった場所は、現在は個人宅になっていますが、入り口に「徳富蘇峰生家跡」の看板が立っています

潮井水源の近くに建てなおされた「四賢婦人記念館」。旧矢嶋家の建物が再現されています

熊本地震で布田川断層帯の断層が現れた潮井水源にある潮井神社。断層帯は震災遺構として国の天然記念物に指定

「四賢婦人記念館」の館内には、4姉妹の資料や、横井小楠、徳富蘇峰・蘆花などの資料も展示されています

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