鞠智城の高台から眺めた城跡。その中には稲刈りを終えた田んぼが広がっていました

澄み切った青空が広がる一日、菊池市との境にまたがる山鹿市菊鹿町の米原台地を訪れました。標高150m前後のこの台地上に、今から約1350年前の7世紀後半、大和政権が築いた古代山城・鞠智城(きくちじょう、くくちのき)の城跡が残っています。

右は復元された校倉(あぜくら)造りの米倉。左は兵士たちの生活の場だった兵舎

城の南に位置し、正門だったと考えられる「堀切門」の扉を支えた石です

大和政権は663(天智2)年、関係の深かった百済救援のため朝鮮半島に出兵し、白村江で唐・新羅の連合軍と戦って大敗。連合軍が日本列島にまで侵攻してくる事態に備える必要に迫られます。

九州を治める大宰府の防衛拠点として築かれたのが水城(福岡県)、大野城(同)、基肄=きい=城(福岡県、佐賀県)などの古代城です。そして鞠智城は前線の城に武器・兵糧や兵員を送る支援基地だったと考えられています。

城の中心となる区域の面積は55ha。さらに周囲の尾根を利用した外側を城域と考えれば、約120haにも及ぶ可能性はあります。「続日本紀」などの歴史書にも出てくる重要遺跡として2004年、国史跡に指定されています。

遺構を元に復元された「八角形鼓楼」。三層目に太鼓が置かれ、城内の連絡のほか、時間を知らせるのにも使われたとされる建物です

鞠智城の解説や資料が展示されている「温故創生館」の1階フロア

「鞠智城は朝鮮半島の古代山城と造りが似ており、亡命してきた百済人が関わったのではないかといわれています」と話すのは「歴史公園鞠智城・温故創生館」学芸員の亀田学さん(55)です。2008年に出土した高さ約13㎝の銅造の百済系菩薩像は、身分の高い百済貴族が持ち込んだ持仏だったのかもしれません。

亀田さんは、「鞠智城がこの地に築かれた理由は、菊池川流域の豊かな米や作物があったことに加え、水運など交通の便が良かったことが考えられます」と話します。鞠智城近くには筑後方面や玉名方面、阿蘇方面、熊本市方面など、各地に通じる官道も通っていました。唐・新羅の侵攻に備えるだけでなく、隼人(南九州地方の人々)の反乱に対処する役割もあったようです。

鞠智城はその後、防衛拠点としての性格も薄れ、平安時代には米倉で火事が相次ぐなどして役割を終えます。

城跡を案内してくれた、「歴史公園鞠智城・温故創生館」学芸員の亀田学さん


散歩を兼ねて歩く城跡

鞠智城の公園内では、出土した遺構から復元された八角形の鼓楼(ころう)や米倉、兵舎などを見学できます。天気の良い日に、散歩がてら広大な城内を歩いて回るのもおすすめです。

防人(さきもり)などの銅像が立つ「温故創生之碑」の横に続く道を歩いて下ると土塁の跡や、3カ所発見されている門跡などを見ることができます。

さらに歩くと城内に稲刈り後の風景が広がっていました。「水田や集落に調和して、(当時の)復元建物を見ることができます」と亀田さん。およそ3・5キロの外郭を1時間半ほどかけて歩けば、ちょっとしたトレッキング気分で、うっすらと汗ばんでくるほどです。

高台に戻って、灰塚展望所に上ってみました。展望台からの眺めは圧巻で、眼下に菊鹿町の風景、西には長崎県島原の普賢岳、すぐ近くに不動岩がはっきりと見えます。古代の防人たちは、ここでのろしをあげたのでしょうか。360度広がるパノラマは実に爽快で、心が洗われるようでした。

展望所へと続く板張りの階段

菊池市から鞠智城跡方面への山越えの不便さを解消するため、明治期に住民が総出で掘った「池ノ尾間歩(いけのおまぶ)のトンネル」

歴史公園鞠智城・温故創生館

山鹿市菊鹿町米原443-1

TEL.0968-48-3178

営/9時半~16時45分 ※入場無料

休/月曜(祝日の場合は翌日 ※12月25日〜1月4日)

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