1988年に流失した眼鏡橋の跡に架けられた「思い出橋」

町の人たちの寄付により1848(嘉永元)年に架けられた「御船眼鏡橋」。肥後の名石工・卯助、卯市、丈八による美しい2連アーチの橋でした(提供=御船町商工会)

御船町を貫く「御船川」。加藤清正により緑川に合流するよう付け替えられ、商都として発展するきっかけになりました

その昔、九州巡幸中の景行天皇の船が当地に着いたことが町名の由来という説もある御船町。いつの頃からか九州を横断して熊本と宮崎を結ぶ日向往還の要衝として発展しました。江戸時代後期からは酒造りが盛んになり、最盛期には12軒の酒造元が白壁の酒蔵を連ねたそうです。

「御船は御船川や緑川の水運でも栄えました。材木をはじめ山間部の物資がここに集まり、川を下って川尻へと送られていました。御船は上益城の経済や文化の中心地だったんです」と話すのは、御船町観光協会長の沖田昌史さん(65)です。今では、町の中心は御船川の北の国道443号周辺に移りつつありますが、往時のメインストリートは、御船川の南側にある「本町通り」でした。

本町通りは、1988(昭和63)年の水害で流失した2連アーチの「御船眼鏡橋」の跡に架かる「思い出橋」から、500mほど下流の「五庵橋」までの間の通り。今は静かなたたずまいの町並みに、往時をしのばせる威風堂々の町家がありました。1802(享和2)年に建てられ、現在は「街なかギャラリー」として開放されている「萬屋(よろずや)」の主屋です。

「思い出橋」のたもとにある木造の旧御船区裁判所(国の登録有形文化財)

御船町観光協会長で「御船LOVEクラブ観光ガイド」でもある沖田昌史さんと、御船町商工観光課の小林亜加里さん(30)

萬屋は、酒造り以外にもみそ・しょうゆ醸造、金融、運送などを手掛ける豪商でした。幕末に活躍した3代目当主の林田能寛は、人々が難渋する日向往還の難所だった八勢川に、私財を投げ打って今も残る「八勢眼鑑橋」を架けた人物です。萬屋には主屋のほか、7つの蔵や旅館もあったそうです。明治になると、萬屋の建物の一部は御船小学校として使われました。

また、「ここには2日間だけですが、県庁が置かれたこともあります」と沖田さん。西南戦争で熊本城が炎上した1877(明治10)年2月19日、お城近くにあった県庁が移ってきました。「多くの職員や機関を収容できる建物が、萬屋にあったということです」と、その規模をうかがい知ることができます。混乱の中、仮県庁舎はたった2日で御船を出ていったそうです。

庭を眺められる萬屋の座敷に座っていると、風になびく庭木からサワサワと心地良い音が

イベント会場やギャラリーとして借りられるほか、見学もできます

「御船の先哲」と伝えられる萬屋3代目の林田能寛の生家を生かした「街なかギャラリー」

御船街なかギャラリー

上益城郡御船町御船794

TEL.096-202-5113

営/9時~17時

休/月曜(祝日の場合は翌日休)


築140年という木造3階建ての建物のバイクショップ

本町通りを歩くと、築140年という木造3階建ての建物のバイクショップ「クラオカオートサービス」がありました。一般には公開されていませんが、店主の倉岡久さん(79)が快く見学させてくれました。1階がバイクショップと生活の場で、2階、3階は往時の面影が残っています。

和服の古着店として建てられたため、3階の天井には着物を掛ける竿が今も残っています。また、1階の座敷には見事な床の間がありました。熊本地震で壁は崩れたそうですが、大黒柱には1ミリの狂いもなかったそうです。「この家が一番落ち着く」と言う倉岡さんの笑顔から、年月を経た町家の居心地の良さが伝わってきます。

「熊本地震で多くの町家が建て替えられました。それでも、昔の面影を残す建物もまだ残っています」と沖田さん。また、「町の歴史を伝えるため、少しでも多く白壁の家を復活させたい」とも話してくれました。

熊本地震で被災し、最近になって修復した倉岡さんの町家。新しいしっくいの白さが際立っています

天井が高く広々とした木造3階建ての最上階。着物を下げる竿が備え付けられています

笑顔で迎えてくれた倉岡さん。バイクの修理中にもかかわらず、自宅の町家を見せてくれました

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