新明八橋(右)と石橋の明八橋が並ぶ光景

その次が新町から西唐人町、細工町側へ渡る「明八橋」です。1875(明治8)年に、やはり橋本勘五郎が架けた石橋です。

「江戸時代には、木橋の『新三丁目橋』が架かっていました。当時、新町側(城内)には櫓門の『新三丁目御門』がありました」と山口さん。「ここは薩摩街道と日向往還の要衝に当たるため、番所と常夜灯が置かれ、暮れ六つ(現在の午後6時ごろ)には門が閉ざされたそうです」と話します。

明八橋は1988(昭和63)年7月、すぐ下流に「新明八橋」が完成して主役の座を譲りますが、現在も自転車・歩行者専用橋として現役です。新明八橋には、明治の文明開化の香りをしのばせるガス灯が設置されています。

その下流に架かるのが「小沢(おざわ)橋」です。「古老のお話では、明治40年前後には木橋が架かっていたそうです」と山口さん。「町の呼び方は『こざわまち』なのに、橋は『おざわばし』となっているところがミステリーですね」

町名は「小沢(こざわ)町」ですが、橋名は「小沢(おざわ)橋」となっています

明八橋周辺の様子を分かりやすくするため、県立大が作成したジオラマの写真。左奥が新明八橋、手前の木橋が江戸時代の新三丁目橋。奥の建物が新三丁目御門です(資料写真=一新まちづくりの会)

さて、次の橋が「一駄橋(いちだばし)」。橋の名前の由来は、平安時代にこの付近一帯が「市田郷」と呼ばれていたからという説と、馬に荷物を一つほどしか乗せて通れない小さい橋だったことから、という説があります。

橋巡りの終点は「祇園橋」。「奈良・平安時代にはこの近くに国府が置かれ、清少納言の父・清原元輔が国司として赴任しています。『祇園橋』の名前は、京から赴任した役人たちが都を恋しく思って付けたと伝えられています」と山口さんが教えてくれました。また、西南戦争では、薩摩軍が祇園橋付近で川の流れを止めて熊本城を水攻めにしようとしたそうです。

「一駄橋」。撮影のため、河川敷まで下りています

熊本駅方面へとつながる「祇園橋」

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