桃の節句の始まりは平安時代とされています。「貴族の間で行われた厄払いの宮中行事『上巳(じょうし)の節句』と、庶民が春に豊作や大漁を願い田や山、海の神様を迎える行事がくっついたのだと思われます」と熊本博物館学芸員の福西大輔さん(45)が説明してくれました。

熊本博物館学芸員の福西大輔さん

「節句」はめでたい祝い事のイメージですが、本来は「節供」と書き、災いが起きないように神様に季節の物を供えて祈願するものでした。「5月5日の端午の節句や7月7日の七夕、9月9日の重陽の節句と、いずれも奇数の数字が重なります。これは縁起が良いとされる奇数が重なると、逆に悪いことが起きるという中国の陰陽思想からきています。だからその日を節供の日にしたと考えられます」と福西さん。

「もともと、上巳の節句では草や紙で作った『人形(ひとがた)』に厄を移し、海や川に流して無病息災を願ったようです。その名残りが山陰地方に残る『流しびな』です」と福西さんが言います。

ちなみに、ひな飾りの「さがりもん」の飾りにある、赤ちゃんがはいはいした姿の「這子(ほうこ)人形」も幼児の厄払いの人形だそうです。平安時代のころには、上巳の節句に贈られていたようです。今につながるひな人形は、「人形」の厄払いの意味に、貴族の女の子が楽しんだ「ひいな遊び」のままごと道具が結びつき、形づくられたようです。


宮中の婚礼模したひな飾り

ひな人形は室町から江戸時代にかけては公家や武家の家で飾られました。「本来は内裏びな一対だけでしたが、宮中の婚礼を模したものと意識されるようになると、ほかの人形や道具が加わっていきました」と福西さん。また道具にも違いがあり、江戸では武家、上方では公家の嫁入り道具を模したそうです。

ひな人形が庶民にまで広まったのは江戸時代後期。「公家や武家の暮らしをまねることが緩くなりましたが、庶民は高価な人形に手が出せず、紙人形のような手作りのものを飾ったようです」

熊本でも庶民の間では『おきあげ人形』と呼ばれる、厚紙と布の間に綿を入れてレリーフのように作った人形が飾られていました。また、天草地方に伝わる土人形でも「親王飾り」と呼ばれるひな人形が作られていました。福西さんが「天草では初節句に贈るひな人形として、1951(昭和26)年まで作られたようです」と教えてくれました。

天草の土人形の「親王飾り」(熊本博物館所蔵)

江戸時代から大正時代にかけて作られた「おきあげ人形」(熊本博物館所蔵)

熊本市立熊本博物館

熊本市中央区古京町3-2

TEL.096-324-3500

開館時間/9時~17時

休/月曜

入館料/大人400円、高・大生300円、中学生以下200円

●熊本博物館では3月7日(日)まで「博物館でひな祭り!!」を開催。

次は:(2)対のひなの位置 大正時代に変化


各情報は掲載時のものです。料金や内容が変わっている場合もあります。